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    「なあ、ジョン!」

    盛子は、歯切れのいゝピツと語尾の跳ね上るやうな調子で、愛想笑ひをしながら小谷に訊いた。

    云ふなり、ごろりと仰向けにひつくり返へると、新聞を持ち上げ、眼をぱちぱちさせ、やがてうとうとしはじめた。すると、面長な、普通よりもよほど大きい練吉の寝顔には、年に似合はない駄々児のやうな表情が浮んだ。

    房一は彼の三男であつた。いつも泥と垢で真黒な顔や手足をしていたが、薄汚い皮膚の下には温い血の色が漲つていて時々水いたづら、それは河や溝川で小鮒を追ひかけることであつたが、その後では両手首から先だけの垢が自然にとれて、小さく頑固な指々が紅く燃えているやうであつた。むつちりと肉のついた肩、粗暴でいながら間断なく閃めいている眼、小柄な身体をゆすぶり立てて歩いたが、彼は対岸の河原町のしつけのよい子供達を憎んでいた。町の子供で、彼よりも歳上の子供が一度よつてたかつて彼を打ちのめしたことがある。物蔭からわつと出られ、見るまにまはりを囲こまれた瞬間、彼は鋭い獣のやうな身構をした。皆は一時ひるんだが、彼の方でも逃げ場はなかつた。一同が迫つて、次にどつと襲ひかゝられると、房一はさつと地上に身を伏して両手で頭を抱へ足をちゞめ、亀の子のやうに円くなつた。埃にまみれ、擦傷や打たれて青く腫れた横頬のまゝ、彼は家へ帰つたが一口もそれについて語らなかつた、それ以後彼の粗暴さは以前よりももつと本能的な動物的な狡猾さを具へて来た。彼は自分をふくろ叩きにした者の顔を一つ一つ覚えていた。彼はその一人一人に復讐をはじめた。そのやり方はかうだ――彼は殆ど一二町手前から敵の顔を見わける。そして、何事もなかつたやうな又何事もないやうな顔で、その汚い垢だらけの顔面から小さい眼だけをきらつかせ傍見わきみをして近づいて行く。相手が彼に気づき警戒する様子を見せると、彼はますます鈍重な呆ぼうとした面つきになる。一二歩の間に近づいて、相手が彼を見て、彼に何の敵意もないと見てとると、急に嘲弄したり、又は機嫌買ひの微笑をする。それでもきよとんとして相手を眺める。しかし、その瞬間彼は一心に胸を張りつめて相手の隙を狙つているのだ。隙がみつかるや否や、彼は突然躍り上るやうにして相手にとびかゝる。そして必らず上背のある相手の顎を狙ふ。むつちりした弾力のある真黒な拳固を突きやつて、その次の瞬間にはもう一二間向ふの方へ走つて逃げている。走りながら一撃を喰はしているのだし、走力が拳固に力を加へているわけだつた。そして相手があつと声を上げて立ち悚すくむか、あるひは身構をしたときには房一はもうはるか彼方を点のやうに小さく一散に走つているのだつた。

    行列がずつと町外れの立岩のところまで行つて、そこで一休みしてから引返して来た頃には、へたばつた様子は午前のそれよりも一層深刻に現れていた。今は笑はれるのを気にするどころではなかつた。紙製の袍には十分皺がより、おまけに永い間日に照らされたので、そり返つて袖口から中に着こんだ木綿縞を露はし、横腹のあたりが裂け、惨憺たる有様だつた。それにもかゝはらず、疲労のために一隊はかへつて一種の上機嫌を呈していた。それに空はあくまで晴れ、雲切れ一つなく、彼等の歩いている田舎路は右手にきらめく河を見下して、白くはつきりと浮び上り、ふり注ぐ日ざしと温かさで噎むせるほどだつた。誰かが笏を落したと云つては笑ひ、木沓きぐつが割れたと云つては笑ひ、さうなるととめどもないげらげら笑ひが浪のやうにしばらくは一隊を支配した。

    並んで立つと、いきなり

    「ありがたう。――あ、大きいね」

    やうやく三十に手が届いたばかりだが、苦労したのとその無骨な外貌のために年齢よりは四つ五つ老けて見える。がつしりと人並外れて幅広い肩はむくれ上るやうに肉が盛り上つて、何だか猪首のやうな印象を与へた。

    「まだ?ふん!よせ、よせ。阿呆らしい」

    「さうか、惜しかつたな」

    「どれ一つ診ませうかな。――ふうむ、これあどうしたのかね、ハッパでやられたのか」

    何かしら、すつ飛んでしまつた。白い光るものも、鬼倉の隈取くまどりのやうに荒い皺の走つた顔も、それからあの、もやもやした怒りも。そして、ぼんやりとして次のやうな話がとり交はされるのを聞いていた。

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